COLUMN

24-03-01

『なぜ私たちは家族を失いたくないのか? vol.2 -西洋起源の家族と資本主義-』

 日本において伝統的な家族と呼べる要素が残っていたのは江戸時代までであり、明治時代以降は西洋社会に起源を持つ近代家族へと少しづつ変化していきます。この「家族の西洋化」という現象は日本に特有のものではなく、他のアジア諸国や社会主義国家といった反西洋的な文化圏にまで影響を与え、家族に対するイメージを「情緒的な絆で結ばれた家族」へと次々に塗り替えていったのです。しかし、西洋社会の家族も近代社会より以前は他の地域と同様に「政治的な性質」を備えていました。西洋文化圏ではキリスト教の規範によって男性の自由離婚や一夫多妻が公に容認されることはありませんでしたが、女性に対する性管理は厳格に行われ、子どもへの強制労働が問題になるなど、決して西洋社会が他の地域よりも家族愛に秀でていたわけではありません。むしろ、西洋社会の家族は政治的な側面が非常に強かったと考えられます。代表的な例として挙げられるのは、政略結婚を通じてヨーロッパ各地に親族を配置したことで広大な領土を支配した「ハプスブルク家」です。


⎜十三世紀末にオーストリアに進出。以後、同地を拠点に中東欧、ネーデルラント、スペインなどに支配を広げ、カール5世(1500-58)の時代には中南米やアジアにも領土を獲得し、「日の沈まない世界帝国」を築き上げた。十五世紀以降、神聖ローマ帝国の皇帝位を代々世襲。ナポレオン戦争による神聖ローマ帝国解体後は、後継のオーストリア帝国の皇帝となった。第一次世界大戦後に、帝国が終焉を迎えるまで、数世紀にわたり広大な領土と多様な民族を統治したヨーロッパ随一の名門家。<国立西洋美術館 ハプスブルク展より引用>


 ハプスブルク家は13世紀末から20世紀初頭まで約600年もの間、ヨーロッパ社会を席巻していたことになりますが、興味深いことに、この600年間は資本主義がヨーロッパで拡大する時期とちょうど重なっているのです。実際、資本主義の拡大に比例するような形でヨーロッパの政治的権力者たちの家族範囲は限定的になり、さらに、その中で「自由恋愛」が発展した事実を考慮すると、資本主義の拡大と近代家族の成立には相関性があると考えられます。つまり、西洋の家族も他の地域と同様に政治的性質を持ち合わせていましたが、資本主義の拡大に応じて情緒的性質を獲得し、それが20世紀以降急速に世界中へ広まったと解釈するのが妥当だと思われます。以上のことを踏また上で、改めて近代家族の性質が世界中で受け入れられたのはなぜか、という問いに答えるのなら、その前に資本主義社会が成立する「歴史的背景」を理解する必要がありそうです。



3. 資本主義の萌芽 - 文明国の経済活動 -


⎜資本主義が始まる時点をピンポイントで示すことは不可能だが、中国では一〇世紀から十四世紀、アラビアでは七世紀から十一世紀、そしてヨーロッパでは十二世紀から十五世紀の間を資本主義の急速な拡大の時期と見ることができる。<J・コッカ>


 資本主義は通貨を用いた貨幣経済や金銭的価値に重点を置く拝金主義と同一視される傾向にありますが、経済活動=資本主義という認識は大きな間違いです。人間社会では古くから、時代や地域に関係なく「贈与」「交換」「交易」といった多種多様な取引が確認されており、資本主義が発展するはるか以前から経済活動は行われていたのです。つまり、資本主義には従来の経済活動とは異なる「動機」が存在し、その動機に突き動かされた人々の手によって拡大していったことが分かります。


 商人による経済活動は世界各地で行われていたにも関わらず、ヨーロッパで資本主義の拡大が確認されたのには明確な理由があります。まず資本主義の萌芽自体はヨーロッパに限定された現象ではなく、中国やアラビアなどの文明国でも同様に確認されたものでした。これらの文明国に共通しているのは早期から「貨幣システム」が導入されており、他の地域には見られない経済圏が発展していたことです。希少性の高い金銀や家畜同士を直接取引する物々交換とは異なり、貨幣はそれ自体に価値を持つわけではありません。貨幣の交換機能が認められるようになるには、国家によって「貨幣の価値を担保する」必要があり、取引する人々の間に貨幣への信用を生み出さなければならないのです。国家は貨幣の偽造や流失を防ぐために細心の注意を払い、大きなコストを支払いながら価値の担保に努めました。文明国がそうまでして貨幣による交換を重視した理由は、貨幣の持つ「交換」「測定」「保存」「運搬」の要素が遠隔地交易に不可欠だったからです。加工する技術の乏しかった時代に金や銀を持ち運ぶことは難しく、家畜も長距離の運搬には適していませんでした。そのため貨幣の有無が遠隔地での交易を大きく左右することになったのです。文明国に活発な経済活動を確認できたのは、国家が貨幣価値の担保に成功したことに加えて、商人を中心とした多くの人々に経済活動を望まれていたからだと考えられます。


⎜中国でもヨーロッパでも、それ以外のどこでも、商人資本主義が政治権力の担い手から明確に距離をおいて発展したことはなかった。経済と国家の明確な分化は、当時の諸世紀において、どこにも現れなかった。中国でもヨーロッパでも(ある程度はアラビアでも)、商人たちの経済力と政府当局の政治権力とはきわめて密接に絡みあっていた。国家形成と市場の形成とは、どこにおいても混淆していた。<J・コッカ>

 
 国家が経済活動を適切に管理した場合、その延長線上に資本主義社会が成立するとしても不自然なことではありません。事実、中国やアラビアではヨーロッパ社会よりも早い段階で資本主義的な経済活動の萌芽を確認できます。中国の場合、早い段階から統一国家と呼べる王朝が存在し、広大な領域を支配していました。政権が交代しても「科挙」に代表される優秀な「官僚制度」によって大きな政治的混乱を免れ、周辺のアジア諸国に畏怖の念を抱かれるほど強力な中央集権を維持し続けることに成功したのです。中でも、宋王朝(九六〇年 〜 一二七九年)時代の中国は非常に高い生活水準に到達し、広大な交易ネットワークを形成しました。


⎜政府の支援、そして、新しく大規模なその艦隊に支えられて、商人たちはとくに東南アジア、インド、アラブ世界、東アフリカ、さらにはエジプトとの海洋交易を拡大した。国内でも、貨幣・市場関係が重要性を大きく増した。<J・コッカ>


 この時期の中国では国家によって道路や運河の建設が進められ、商人が積極的に交易できる環境を整えられていました。基本的に国家の役割は通貨の管理やインフラの整備に限定され、塩などの一部の商品を除いて販売制限も行いませんでした。自由な交易は商人の社会的地位を高めると同時に、火薬、羅針盤、印刷機という画期的な発明にも繋がり、世界でも随一の文明国として中国の名が知れ渡ることになります。


 そしてもうひとつの文明国であるアラビア諸国は7世紀末から13世紀半ばにかけてイスラム教の大帝国を築き上げ、ユーラシア大陸を貫く陸の通商路と大規模な海の通商路を支配します。アラビアは厳しい自然環境から周辺諸国との競争が激しい地域でしたが、権威と権力を併せ持ったイスラム教の最高指導者である「カリフ」の存在によって周辺地域一帯を統治することに成功します。これはイスラム教の創始者である「ムハンマド」が宗教的な権威であると同時に商人や軍人としての役割も担っていたことから、布教・商売・侵略といったあらゆる行為がカリフの下で統制可能だったことに由来します。


⎜イスラム教の急速な拡大は、アラブ人が支配し、イスラム教の影響下におかれ、まもなく帝国となる国家の建設とともに進行した。この拡大は、商人の力、市場の拡大する力によるよりも、むしろ政治の力、暴力、そして征服によるものだった。さらに、新たに生まれた伝道宗教の巨大な力、全世界に教えを広めようとするこの宗教の巨大な推進力、そして、きわめて有能な傭兵軍の力が加わった。<J・コッカ>


 またアラビア諸国の経済圏が発達した理由にはイスラム教の聖典である「クルアーン」の存在も大きく関わっています。クルアーンは「聖典」としての役割だけではなく「法典」としての役割も兼ね備えていたため、イスラム圏に存在する地域は遠く離れた場所でもルールを共有することができたのです。これによって広大な地域がひとつの文化圏として機能するようになり、アラビアでは九世紀ごろから地域ごとに分業生産された商品が市場に出回るようになりました。


⎜イスラム教に規定された法が、商取引の契約を結び、金銭を借り、債務を回収するための良好な基盤を提供したことは明らかである。それはまた、いずれにせよリスクなしではすまない遠隔地交易がそれなしではすぐに廃れてしまうような、国境を超えて通用するルールを提供した。共通の言語、宗教、したがってまたある程度共通の文化を基礎にして、アラブ人商人の新しいネットワークが形成された。<J・コッカ>


 以上のように、中国やアラビアでは安定した政治体制を築くことに成功し、広範囲に及ぶ経済圏を確保していました。そして一五世紀になる頃には、イスラム勢力が東ヨーロッパに存在する「ビザンツ帝国」を滅ぼし、さらに広大な陸の通商路と海の通商路を確保します。これにより西ヨーロッパ諸国は交易を圧迫され、決死の覚悟で新しい交易路を見つけなければならないほど追い込まれることになりました。しかし、特筆すべきことに、中国の優れた官僚制度やアラビア諸国の絶対的な指導者の存在は最終的に人々の経済活動を妨げる要因になり、資本主義社会の成立に必要な「動機」を芽生えさせるには至らなかったのです。


⎜宋代におけるような並外れたダイナミズムが、続く数世紀に持続することはなかった。鄭和を司令官とする大規模な船団による目を見張るような遠征の後、一四三〇年代に中国は内向きに転じ、海洋貿易に背を向け、艦隊を崩壊に任せ、商人が国外に出ることを困難にした。従来から盛んに議論されてきた長く影響を及ぼすことになるこの方向転換は、モンゴル人やその他ありうべき侵略者に対して帝国の北部を防衛するという、多大な力を要する課題と確かに関係している。


 中国が海洋貿易から撤退した理由は、遠隔地での交易を継続するよりも「政治的安定」を優先したからです。モンゴル帝国によって一時的に支配された13世紀後半の中国では、モンゴル人たちの積極的な東西交流から持ち込まれた西洋文化やイスラム文化を受け入れざるを得ませんでした。遊牧民であるモンゴル人の性質上、伝統的な中国文化が破壊されることはありませんでしたが、以降この経験は中国政府の厳しい北方系民族対策に影響を与えることになります。広大な土地を維持するためには中央集権の力を弱体化させないことが何よりも重要であり、他民族の文化が中国の文化と交じわることを危惧したのです。国家は商人の遠隔地交易から完全に手を引き、国防にリソースを割いたことで、次第に中国から造船技術や遠洋航海技術が失われていくことになりました。当時の海上貿易は国家の後ろ盾がなければ実行できるようなものではなく、航海に多額の資金を必要としたため、商人にとって国家による海上貿易の放棄は致命的だったのです。


⎜政治に埋め込まれた中国的な形態の商人資本主義は、強力な中央国家によるこのような政治的方向転換に対して抵抗するだけの力を備えていなかった。<J・コッカ>


 同様にアラビア商人たちも権力者たちの政治闘争に巻き込まれた場合、自力で経済圏を確保できるような力を備えていませんでした。イスラム諸国では商人による経済活動が推奨されていたとはいえ、それはあくまで国家の経済的繁栄に寄与するからであり、独自の勢力として存在することが認められているわけではありませんでした。


⎜九・一〇世紀にはアラビアの若干の地域で、商人資本家的ブルジョワジーの端緒が、当時の世界のどこよりも明確に姿を現していた。しかし、商人資本家は、貴族の大地主や軍隊の指導者のような伝統的エリートが行使する政治権力に与ることはなかった。<J・コッカ>



4. 錯綜する政治権力 - ヨーロッパの特異性 -


 ヨーロッパが資本主義を拡大することに成功したのは国家に頼らない自治的な経済活動が発展したことに由来します。別の言い方をするなら、政治的混乱が長期化したことで、商人やその他の人々たちが自発的に経済圏を確立させなければいけない状態だったのです。


⎜五世紀における西ローマ帝国の政治的崩壊、民族の大移動期における不安定な状況のなかで経済活動は分断され、古代に現れた資本主義的なものはこれとともにすべて崩れ去った。(中略)ローマ帝国に支配され、あるいはその影響下にあったヨーロッパの諸地域では、市場経済は後退し、貨幣経済の衰退、農業中心の経済への逆戻りが見られた。<J・コッカ>


 中国やアラビアが古代から引き継がれた強力な統治システムに改良を重ねることで発展したのに対して、ヨーロッパ社会では古代ギリシア・ローマの優れた制度や技術を継承することができませんでした。西ローマ帝国の崩壊後は文化も民族も異なる小さな国家が乱立し、複数の政治権力者たちが領土を争う慢性的な抗争状態へと突入してしまいます。ヨーロッパの歴史は「戦争の歴史」と言い換えられるほど、常に周辺諸国との激しい争いが行われてきました。争いの理由は民族や宗教の相違、地理的条件など多岐に渡りますが、一番の要因は「絶対的な支配者の不在」だと考えられています。中世ヨーロッパ社会では、宗教的な政治権力者である「教皇」と、世俗的な政治権力者である「君主」がそれぞれ存在し、お互いの社会的地位を維持するために「共生と対立」を繰り返してきました。軍事力や生産力を持っていない宗教的政治権力者たちは「物理的な保護と生活必需品の確保」を君主に要求し、また世俗的政治権力者たちは「権威の担保と魂の救済」を教皇に求めました。


 この教皇と君主の力関係は外的要因に左右されやすく、飢饉、疫病、戦争などの治安悪化で容易に変化するため、ヨーロッパ全体を統治する安定した中央集権は確立されなかったのです。ヨーロッパにおける政治的混乱は古代ローマ帝国の崩壊から数十世紀にも及び、宗教的な権威が影響力を失う18世紀後半ごろまで終息することはありませんでした。結果として、ヨーロッパは多様な政治権力が交錯する世界として発展し、他の地域に見られない独自の制度や技術が数多く発明されるようになりました。


⎜ヨーロッパのこうした情勢から、政治的支配者たちが互いに競いあってそれぞれの支配領域の経済力を強化する、という結果がおのずと生じた。ヨーロッパで資本主義を支えた商人たち、少なくともその最上層は、都市国家や市民統治の自由都市における支配者との共生を通じて、あるいは資金援助を求める政治権力者との密接な繋がりを通じて、そして正式の自己組織(ギルド)を通じて、政治に直接影響をおよぼした。<J・コッカ>



5. ヨーロッパの拡大 - 東方貿易から植民地経営まで -

 
 政治的混乱の影響で貨幣経済が衰退していたヨーロッパですが、地中海に面していたイタリアの諸都市は港市として発展していたことで、他の地域には見られない活発な経済活動が行われていました。そして11世紀末頃になると中世社会で最も影響力を持っていたローマ・カトリック教会と結び付き、イスラムやアジアの商人たちと「東方貿易」を展開することになります。


⎜イタリア諸都市は、十字軍に財政的および軍事的支援を行なった見返りに、十字軍の支配下に組み込まれた地中海東部全域における特権を獲得した。(中略)イタリアへの富の流入は、沿岸の大都市のみならず、隣接した内陸の都市にも大きな経済成長をもたらした。<E・グリーン>


 イタリアを中心に行われた東方貿易が中世ヨーロッパ社会に与えた経済的影響は計り知れず、遠洋航海技術の進歩、銀行の発展、企業の誕生など、中国やアラビアの経済活動には見られなかった資本主義の下地となる制度が発達する契機を生み出します。中でも、銀行の発展に伴う「信用制度」「為替手形」「融資制度」の発明は、画期的な仕組みとしてヨーロッパの金融業を活性化させることになりました。


⎜14世紀の為替手形の書式では、指名された特定の個人に一定の金額を近い将来支払うという約束が書き込まれていた。この取引には個人または企業の四者がかかわることになる。まず、商人(A)が遠くに離れた都市、または国に住む商人(B)に支払いを望む。地元の銀行(AA)はBの住む遠隔地の銀行(BB)に口座を持っている。そこでAの指示に基づきAAがBBに為替手形を書き、BBに対しBへの支払いを承認する。この方法でAとBはそれぞれ地元の銀行に支払い、または地元の銀行から取り立てることができる。<E・グリーン>

 
 これまでの遠隔地交易では、長旅に生じるリスク、例えば、海賊からの略奪行為、沈没や難破の被害、膨大な運搬コストなど、資金提供者自身が負担しなければなりませんでした。商人たちが対策としてできることは武装した複数の船体を並べて慎重に航海することくらいで、仮に交易が途中で頓挫した場合、大量に積み込んだ商品や貨幣を一度にすべて失い、その時点で制裁や破産は免れなかったと考えられます。それが金融制度の発展によって貨幣を運搬する必要がなくなり、資金調達も容易になったため、遠隔地交易の際に生じたリスクを大きく軽減させることに成功したのです。


「イタリア人は手ぶらで身の回り品以外には何も持たずに定期市へ旅する。彼らの身に付けているものといえば、僅かばかりの信用、ペン、インクと紙、そしてどこでお金がもっとも不足しているかについての自分達の持つ情報にしたがって、ある国から他国へと為替を操り、処分し転用する熟達した技術だけであった。<あるフランスの批評家>


 ヨーロッパ商人はイタリアでの東方貿易を契機に以後活発な遠隔地交易を行ないましたが、15世紀に入るとイスラム勢力である「オスマン帝国」の進出を受け、次第に地中海での地位を失っていきます。これによりヨーロッパ諸国は新しい経済圏を獲得する必要が生まれ、大西洋から東方へと向かう大掛かりな交易ルートを模索することになりました。この新航路開拓は「地理上の発見の時代」と呼ばれ、後にヨーロッパの覇権を決定させる重要な因子を残すことになります。


⎜「地理上の発見の時代」としばしば遠回しに呼ばれるものは、現実にはヨーロッパの諸強国による世界の大部分の、一部は暴力的、一部は商業的な征服の時代だった。ポルトガル人とスペイン人が大西洋を横断し、南アメリカの諸帝国を破壊し、その財宝を略奪した。<J・コッカ>


 新大陸から持ち込まれた富によって交易の中心地が地中海から大西洋へと移行すると、ヨーロッパにおける資本主義発展の主導的地域もイタリアからオランダ、そしてイギリスへと移行することになります。この時代のオランダとイギリスが他のヨーロッパ諸国よりも優れていた点は、経済圏の拡大にともなって増大する「信用」を適切にコントロールする金融制度と、君主の「きまぐれ」に影響を受けない議会制度を準備できたことです。中世から近世にかけてのヨーロッパでは王位継承権を巡る権力者たちの世俗的な争いが長期に渡って行われ、支配地の維持に膨大な戦費を必要としていました。そのため各国の君主たちは足りない資金を商人や銀行から調達するようになりますが、ここで問題が生じます。これらの戦争は「国民国家」によるものではなく、あくまで政治権力者たちの「私情」によって行われる「主権国家」の争いであるため、仮に戦況の悪化等で負債が膨れ上がった場合、君主たちは武力を介して借金を踏み倒したり、不当な搾取を通じて切り抜けることが可能だったのです。


⎜戦費の支払いに迫られた17世紀のヨーロッパにおいて、銀行業の発展にとって最も重要な課題は、やはり公共部門への金融にあった。戦費支出を十分に賄いうるほど大規模で、しかも16世紀の個人銀行家たちの轍を踏まないだけの安全かつ非個人的な金融機関の必要がますます痛感されていた。<E・グリーン>

 
 しかし、オランダやイギリスは歴史的な要因で「議会」の影響力が強く、相対的に君主の権利が制限されていました。そして17世紀のイギリスで成立した「立憲君主制」と呼ばれる制度によって君主の王権はさらに制限されることになり、早期から王権と議会の勢力均衡に成功したのです。他のヨーロッパ諸国がフランスを筆頭に「絶対王政」を確立させ、君主自らの手によって不安定な経済状況に追い込まれていく中、オランダとイギリスでは国家の経済的信用を維持することができたのです。


⎜イギリスにおける財政上の刷新の一つは、1694年のイングランド銀行創設である。それは非政府機関として組織されたが、しかしまもなく一種の中央銀行となり、「最後の貸し手」の役割を担い、この国の金融政策に決定的に関与した。国家形成、そしてまた資本主義のさらなる発展のための理想的条件の形成に、それは大きく寄与したのである。<J・コッカ>


 オランダとイギリスの安定した金融制度は経済競争の上で非常に優位に働きました。17世紀から18世紀初期のヨーロッパは貨幣の量=国力だとする「重商主義」の考え方が浸透していたことで、各国は新しい市場である「植民地」の獲得を競うようになります。植民地では「プランテーション」と呼ばれる輸出向け商品に特化した大規模な農業経営が主な産業として機能したため、現地には植民地を管理・運営するための交易会社も数多く誕生しました。その中でもオランダとイギリスで設立された「東インド会社」は、本国政府から東アジアの貿易に対する独占権を認められた特権会社であると同時に、資金提供者に利益を配分する「株式会社」の性質も持ち合わせていました。


⎜商人資本主義と急速に進む植民地形成との結びつきは、組織上のイノベーションを呼び起こした。一つには、確立しつつある資本主義の核を成す制度上の構成要素として、企業が、かつてのいかなる時代より明確な姿をとって現れた。<J・コッカ>


 交易を取り扱う企業は16世紀の時点で存在していましたが、これまでの企業では少数の商人が限られた期限内に独立して業務を行い、終了すれば解散するというプロジェクト単位の組織だったのに対して、株式会社は利潤が期待できる以上解散することはなく、さらに出資者と経営者の分離、垂直に管理された組織、専門的な分業など、広範な地域を持続的に管理する仕組みが内包されていたのです。これによって投資対象としての価値を増大させた株式会社は、発展した金融制度とシナジーを生み出すことで植民地経営を支え、オランダとイギリスの経済的優位を決定付けました。



6. 資本主義を拒んだ封建制 - 囲い込みと農業革命 -


 中世から近世にかけてのヨーロッパはその経済規模を拡大させ、資本主義的な要素を孕んだ商業活動を積極的に行っていたことが確認できます。特に植民地経営は金融業と株式会社の発展に支えられ、そこから得られた利潤は国家にとって欠くことのできない重要な経済基盤となりました。それでも17世紀時点のヨーロッパには社会全体を資本主義の原理で覆い尽くすほどの力は育たず、あくまで一部の特権階級や商人たちが資本主義的精神を身に付けているに過ぎませんでした。多くの人々、特に農民たちにとって経済活動とは、自給自足的であり、また地産地消的なものでした。それはヨーロッパで市場という概念が重要性を帯び始めた近世初期であっても変わらず、農民たちが「消費者」あるいは「生産者」として市場と深く関わることはなかったのです。どのような時代、地域であっても農村の世界は閉鎖的であり、農民たちは村内における支配者的立場の人間に服従し、追従する傾向が見られました。農民たちの精神性は、自立より依存を、競争より調和を、革新より伝統を重んじたため、どれだけ不平等な状況でも隷属的な立場から脱するエネルギーは生まれませんでした。


⎜ヨーロッパの大半の地域で資本主義の端緒の前に立ちはだかったのは、何よりも封建制である。経済関係と社会関係を密接に結びつけ、特権と従属のいずれをも、経営的のみならず、とりわけ社会的、政治的に規定することにより、封建制は調整メカニズムとしての市場での交換を著しく制約した。封建制は、領主、農民、農村下層民の経済的思考・行動の余地を大きく狭めた。新種の商品やサービス、利益の獲得・投資・蓄積・競争と成長への指向から生まれうる変化のダイナミズムに、それはブレーキをかけた。<J・コッカ>


 このような資本主義の諸原理とは対極的な農業の世界に対してイノベーションが起きたのはイギリスでした。(厳密にいえば、革新の端緒こそオランダやフランドル地方でも確認されていましたが、後の「農業革命」につながる抜本的な構造転換はイギリスから起こりました。)イギリスでは、封建制の伝統が弱かったことに加え、16世紀ごろから毛織物の海外需要が増大したことで、領主や富裕層が農業よりも羊毛の生産を重視するようになります。本来であれば耕地として利用される土地が羊を飼うための牧場に転換されたことで、小作農たちは強制的に畑を追われ、多くの失業者を生み出す事態となりました。耕地を奪われた農民は離村する以外の選択肢を持たず、都市部の工場制手工業(マニュファクチュア)で賃金労働者として働く道を余儀なくされました。


⎜15世紀から18世紀にかけてイギリスでは、衰退し、しばしば他に吸収される小・零細農を犠牲にしつつ、農地所有の集中が顕著に進んだのである。その際、いわゆるエンクロージャー(牧場への転換)の形での共有地の私有化が重要な意味をもったことは、これまで盛んに論じられてきたところである。共有地の私有化と小規模農地の結合による耕地整理は、しばしば議会の決定の助けを得て進められた。この決定は、貴族やジェントリ(地主層)から成るエリート層の影響の下、農民の保護ではなく、大経営的農業資本主義の形成に利した。<J・コッカ>


 農民が半ば強制的に都市部への移住を迫られた背景には、これまで失業者に対して福祉的役割を担ってきた「イギリス修道院の解散」がありました。16世紀のヨーロッパは各国で「宗教改革」による政治運動が相次ぎ、ローマ・カトリック教会に対する反発が勢いを増している最中でした。その中で、当時のイギリス国王であるヘンリ8世はローマ教皇から離反し、そして教皇の権力を弱体化させるために国内の修道院を全て解散させ、没収した土地を払い下げたのです。払い下げを受けた貴族やジェントリ、商人などは経済的に台頭し、新興勢力の一因にまで成長することになりますが、彼らには農民たちを保護する義務も宗教的慈善の意識も希薄だったため、土地を追われた農民たちはそのまま失業する流れとなったのです。結果として、土地を介した封建的主従関係は力を失い、農業世界は大きな構造転換へと向かいます。


⎜この結果、農業における賃労働、そして農村労働者の「放出」が大きく拡大した。都市に移住した農村労働者は、後に工業化のための労働者として用いられることになる。16世紀から18世紀の間にイギリスでは、土地所有の集中と賃貸、自由な賃労働を基礎とする大経営的農業資本主義が完全な発展をとげた。<J・コッカ>


 エンクロージャーによる一連の「私有地化」から発展した毛織物業、穀物生産は、伝統的な農業生産よりも大きな成果を上げることになります。これはジェントリや商人の自由な土地利用によって耕作法の改善、組織的な畜産などが行われ、農業の世界に「生産性の向上」という思考が根付くようになったからです。さらに農村社会にも一定の競争原理が持ち込まれたことで、農民たちの間にも少しづつ格差が生じ、賃金を上昇させたという心理的な変化を促すようになりました。


⎜伝統的な農民の自給自足に代わり、利益思考と革新の追求が、今や地主および借地人にとっての通則となった。一方、多くの賃労働者も賃金が上がればより働く用意を示した。これが「農業革命」と呼ばれるものである。<J・コッカ>



7. 市場との共存 - プロト工業化と産業革命 -


 市場からの購入が一般化していない社会では、基本的に生活必需品は自作するものであり、ある意味全ての人々が何かしらの「製造」に携わっていたと考えられますが、その中でも商品製造を専門的に請け負っていたのが「手工業者」でした。


⎜伝統的に手工業は、ギルド(ツンフト)という団体に組織されていた。つまり手工業者はそれぞれに職業を管轄するギルドに所属せねばならず、それが定める規則に従わねばならない。その規則が立脚するのは競争の原理ではなく、仲間(兄弟)としての平等の平等の原則、手段による独占の意識だった。<J・コッカ>


 手工業や製造業の世界も農業と同様に伝統的な秩序の中で運営され、農民たちより自立的ではあるものの、強い仲間意識が長期に渡って資本主義的なイノベーションを阻害する要因になっていました。しかし、17世紀末ごろを契機に都市部とその周辺の農村部で「プロト工業化」と呼ばれる生産が見られるようになり、閉鎖的な経済圏に閉じこもっていたはずの農民や手工業者たちの生活にも変化が生じます。これまでは内向きの需要に対してのみ商品を製作していた彼らが、輸出向けの商品を製作するようになり、都市の仲介商人を通じて市場での営利活動を行うようになったのです。こうした変化の背景にあるのは、宗教改革や絶対王政、また植民地経営による海外市場の誕生など、複雑な社会現象が同時に引き起こされたことによって伝統的な共同体の維持が困難になったことが挙げられます。変化を余儀なくされた人々は伝統的な生産と市場を介した生産を併せ持つようになり、限定的だったその労働力を多方面に提供することで変化に対応したのです。


⎜プロト工業化の特徴は、自家用もしくは地域市場向けではなく域外市場向けの、農村家族に支えられた製造業の生産活動にある。この生産活動は、ヨーロッパの多くの地域で重要な地位を占めるようになったが、とりわけ北西ヨーロッパではその重要性は際立っていた。フランス北部、フランドル、オランダ東部、およびイギリスのいくつかの地域では、農村の工業生産が活発化し、密度・強度も増したのである。プロト工業生産を組織化したのはもっぱら都市の商人であり、資金を融通したのも彼らだったが、生産プロセスそのものは小規模な家内工業技術に依拠していた。<J・D・リース>


 資本主義社会の成立を語る上でプロト工業システムが重要だとされるのは、伝統的な人々を新たな生産へと促したこと以上に、市場を介して都市と農村を結びつけたことにあります。都市部で展開される魅力的な商品とサービスが、依存的で、調和的な、伝統を重んじる人々を惹きつけたのです。もちろん、上述したような社会的混乱がなければ、人々が積極的に市場と関わることは難しかったと思いますが、結果として、都市部での生活が伝統的な人々に与えた影響は計り知れないものでした。


⎜17世紀末から18世紀初期にかけ、『お茶』と呼ばれるイギリスの習慣が、日に2度という食事のありかたを根本的に見直させるとともに、そのうちの一角を占め、『茶、コーヒー、砂糖が』海外から輸入される消費財の主要品目となり、『お茶』の席の参加者にとって重要な社会的・文化的意味を持つようになった。<U・スミス>


 この時期のヨーロッパで特筆すべきことは、人々が複数の商品を組み合わせることで得られる「効用」を自ら追求するようになったことです。最も分かりやすい例として挙げられるのが、お茶と砂糖を組み合わせることで誕生した『紅茶』であり、その商品が単体では持ち合わせていなかった効用を発見することで、ある商品を消費するには別の商品を消費しなければならないという心理が芽生えはじめたのです。


⎜消費者が安楽と快楽を追求し、発見するプロセスを、単純に新たなモノやサービスの獲得過程とみなすわけにはいかない。消費者が求める斬新さは、むしろ使い慣れたモノとの代替可能性を見出せるか否かにこそかかっている。代替可能性の領域は、素朴な技術上の要請から、複雑なライフスタイルの問題にいたるまで広範囲にまたがる。このことが示唆するのは、消費需要の決定的な刷新が、相対価値と収入の変化の、途切れることのない漸次的対応を通じてもたらされるのではなく、新たな消費組み合わせへの、唐突な飛躍的移行によって生じるということだ。<J・D・リース>


 冒頭に述べたように、資本主義には従来の経済活動とは異なる「動機」が存在すると説明しましたが、それはまさに17世紀のヨーロッパで表出した「消費への欲求」に他なりません。ヨーロッパ社会が産業革命の下地を準備できたのは、資本主義社会の成立に先駆けて消費への要求があるゆる社会階層の間に生じたからです。人々が自らの意思で、場合によっては生活必需品の購入を見送ってまで消費に興じるようになったことで、社会は「消費を前提としたもの」に移り変わっていったのです。そして、より多くのモノを消費したいというエネルギーは次第に「労働の強化」へと発展し、人々は過剰な消費者であると同時に堅実な生産者へと生まれ変わっていったのです。


⎜18世紀末に始まる工業化の近世における先行者と見なしうるこうした事態が進んだのは、市場と消費を指向し、分散的で家庭に近接して営まれる製造業のこの世界においてであった。最後に、産業革命の偉大な発明、『ジェニー紡績機』『水力紡績機』『ミュール紡績機』は、プロト工業的紡績業の成果とボトルネックへの対応として生まれたものであり、これらの発明が、工場制工業と、従って真の工業化の成立に道を拓いたのである。<J・コッカ>

   

一覧

次へ>>